代表プロフィール

ファシリテーションのことなら、岐阜県唯一の専門家にお任せを。ファシリテーションとは会議を円滑に進行し、チームの力を最大限に引き出すこと。ファシリテーターとは単なる司会ではなく意見とやる気を引き出す役割。中小企業等の組織活性化、心理的安全性の向上、風土づくり、チームビルディング、SDGsの促進等に必須のスキルです。管理職等の人材育成、社員教育に、その意味や手法、コツを研修や講座でお教えします。オンライン会議、WEB会議も対応。地域は岐阜、愛知、名古屋、東海地方はじめ全国に対応。

井坂泰成(いさかやすしげ)

MiNO1ファシリテーションオフィス代表
ファシリテーター・研修講師
(教育ファシリテーション修士)

1969年兵庫県神戸市生まれ/岐阜県不破郡垂井町在住
東京大学文学部卒
NHK(ディレクター)、国際協力NGO、JICA、コンサルティング会社等を経て2016年創業。

アフリカでの開発援助事業のマネジメント経験を通して、一人一人の主体性を引き出しながらチームを育てるためのコミュニケーションの重要性を認識し、ファシリテーションを専門に学ぶ。

「対話による共創」を理念に、公共課題の市民ワークショップや法人組織の会議等の「対話の場」のファシリテーターを務める他、人間関係の良い「強くてあたたかい」組織づくりのための研修・人材育成・教育コンサルティングに従事。

岐阜県を中心に、製造業、金融機関、介護施設、地方自治体、NPO等、幅広い分野で多数の支援・登壇実績を持ち、受講者は4,600人を超える。

マスコミ出身ならではのわかりやすい説明と丁寧な指導、ファシリテーション専門家としての気づき・やる気を引き出す実践的な参加体験型研修、柔らかい人当たりに定評がある。

専門分野:ファシリテーション、ファシリテーター型(支援型)リーダーシップ、チームビルディング、コーチング、プレゼンテーション、ダイバーシティ・異文化理解、モチベーションマネジメント等

CTIジャパン・コーチ養成講座応用コース修了
南山大学大学院人間文化研究科教育ファシリテーション専攻修了

<大学での非常勤講師歴>
神戸学院大学
岐阜協立大学
岐阜大学
南山大学

星座:天秤座 
好きなこと:卓球、家庭菜園、森歩き、クラシック音楽鑑賞、初期仏教、猫いじり(白黒2匹の飼い猫あり)
好きな言葉:「There is no way to peace. Peace is the way.」(ガンジー)
      「Knowledge speaks, Wisdom listens.」(ジミ・ヘンドリックス)
      「犀の角のようにただ独り歩め」(ブッダ)

ライフヒストリー(長い自己紹介)

<「信頼」を求めた子供の頃>
 神戸の下町に3人兄妹の長男として生まれ、両親・祖父母・親族から大事にされて育ちました。漫画や本さえあればいつまでも一人で静かに過ごす「手のかからない子」(母親談)でした。勉強は得意だけど、運動や美術は苦手という典型的な秀才タイプ。そのせいか小学校高学年の時にいじめに遭い、卒業まではつらい時期を過ごしました。卒業文集に、大事にしたい事として「信頼」と書いたことを覚えています。信頼しあえる人間関係を求めていたのでしょう。

<勉強と反動の学生時代>
 中学では卓球に打ち込み、高校では勉強に打ち込み、大学では、反動から、寮生活と学生自治会活動で「飲み明かす」ことに打ち込みました(笑)。寮は大学の敷地内にあったのに、授業にはろくに出ませんでした(もし人生のどこかの時期をやり直せるなら、迷わず学生時代を選びますw)。

<不安のスタートから成長したNHK時代>
 就職は、漠然とですが、「啓発を通じて世の中を良くしたい」という思いからマスコミを志望し、NHKにディレクターとして採用されました。ただ、いざ内定が決まると、「本当に務まるのかなぁ。やっぱり辞退しようかな」と思ったぐらい不安にかられました。元々が内向的な性格なので、大勢の人に会いに行く、「ネタ」を発掘してくるという仕事を想像すると躊躇されたのです。同期を見ても、シャイな人は全くいなかったので(笑)、一層不安になりました。

初任地は鳥取局という小さなローカル局でアットホームな職場だったのですが、それでも私は内心ビクビクで、取材の電話も人前ではなかなかかけられず、誰もいない部屋や、わざわざ外の公衆電話からかけていたほどでした。モタモタしているので、なかなか企画提案が出せず、苦しい思いをしたこともよくありました。

そんな私でも、先輩たちの指導と「慣れ」でどうにか務まるようになり、地方局のローカル番組を積み重ねて全国放送番組も担当し、東京に転勤してからはパプアニューギニアの熱帯雨林やルーマニアのロマの文化等の海外紀行番組を制作。ついには、大型国際プロジェクトにも抜擢され、ヨーロッパで100人近くの国際スタッフを率いる経験もしました。

国内外の様々な現場を見て、多様な人々の人生に出会ったことは、私にとって「他者を理解する」力を養った貴重な経験です。また、視聴者に届くように「伝える」力も合わせ、現在の自分の財産になっています。

ルーマニアのロマの人々を取材時(2000年頃)

<退職の決断>
 恵まれていたNHK生活でしたが、10年経った2004年、自ら退職することに決めました。

きっかけは、どうしても作りたかった番組の企画提案が通らなくなったことでした。それはアフガニスタンの戦争孤児をテーマにした企画で、支援を始めたあるNGOと出会ったことから実態を知り、これはどうしても伝えたいと思いました。NGOに同行して自費で現地にリサーチにも行きました。

それまで多くの番組を制作していましたが、必ずしも心から作りたいものではなく、内心ではもどかしさを感じていました。やっと自分が本当に伝えたい話と出会えた。どうしても番組にしたい。そう思って何度も企画書を書き直して提出しました。が、しかし、タイミングが悪かった。地方局である岡山局への異動の辞令が出て、その企画はボツになってしまったのです。

転勤後は悶々とする日々が続きました。地方局での役割を表面的には全うしつつも、家に帰ったら欲求不満から食器を叩き割っていたこともありました。

心はアフガニスタンや途上国に向かい、岡山に本部があるAMDAという大きな国際協力NGOを取材するうち、自分も現地で支援活動をしてみたいと思うようになりました。

1年以上悩み、いろんな人に相談し、自問自答する日々が続きました。そして、最後はこんな「問い」を自分に向けてみました。

「もし完全に自由にやらせてもらえるとして、ディレクターの仕事を続けたいか?」
「…NO!」

あぁ、そうだ。自分はもうディレクターという仕事をこれ以上続けたいわけではないのだ。続けたら嘘になる。やめよう。不思議とスッキリと決断することができました。

当時35歳。この機を逃したら、その後は怖くなるかもしれない。転職するなら今だと思い、辞表を出しました。退職の挨拶をして回った時の晴れ晴れとした気分は今でも覚えています(だから、全く後悔はしていません)。

<第二の人生、いきなりの挫折>
 東京に戻り、転職のきっかけとなったアフガニスタン戦争孤児支援のNGOで働くことになりました。最初は無給でしたが、それでも構わないと、意気揚々と「第二の人生」のスタートを切りました。

ところが、です。人生最初で最大の挫折が待ち受けていました。

働いてまもなく、信頼していたその団体の長に頼まれてお金を貸したところ、結局戻ってこなくなったのです。私の退職金に当たる高額のお金でした。団体の運営が厳しいからと、あくまで一時的な資金繰りのためですぐに返すと言われ、信用したのでした。が、実際には返す当てはなく、私以外に10もの個人・法人から借りていたことが後からわかりました。それも、代理人の弁護士からの「自己破産手続き中」の通知でもって…。

お金のこともさることながら、その人の手の平を返した態度に人間不信に陥りました。同時に、自分の浅はかさ、軽率な行動に深く落ち込み、しばらくは部屋で寝込んだまま何もすることができませんでした。

立ち直れたのは、私の嘆きを何も言わずに聴いてくれた友人と、「その程度で済んでよかったやん」と大らかに受け止めてくれた両親のおかげでした。人を責めたり、説教しようとするのではなく、ただ受け止めて聴いてくれることの力、ありがたさを身に染みて学びました。

<フリーディレクターとしての挑戦、復活、学び>
 そんな事があったので、しばらくは国際協力の世界に戻る気になれず、「昔取った杵柄」でフリーの映像制作ディレクターとして身を立てることにしました。そして、一冊の本との出会いがきっかけで、キューバの都市農業をテーマにしたDVDを自主制作することに決め、なけなしの貯金を叩いて制作費に当て、制作に集中しました。情報収集、インタビュー、旅行の手配、同行するスタッフの募集、渡航、撮影、編集、広報と全てを一人でやり切りました。多くのメディアが取り上げてくれて、たくさんの方が上映会に来てくれ、DVDを購入してくれました。大儲けはできませんでしたが(笑)、製作費は十分に回収できました。

そうして、自分の中にある「力」を感じることができ、落ち込みから復活することができました。また、自分が本気で何かに取り組む事で大勢の人が応援し、支援してくれること、その有り難さを心から感じました。これは、NHKという大組織の中で制作していた時には全く感じた事のない感情でした。思えば、自分は「感謝」というものを知らない人間でした。お金は失ったけれど、それを授業料として?人間として大切なことを学んだと思います。

<国際協力に再チャレンジ〜アフリカでの日々>
 「やっぱり、国際協力の仕事をきちんとやりたい」。フリーのディレクターとして食べてはいけていましたが、不本意に途絶えてしまった志望を叶えたく、求人を探すことにしました。すると、以前NHK時代に取材したAMDAが募集しているではありませんか。応募したところ、未経験で国際協力の専門性もない私をどういうわけか採用してくれました。実に縁は不思議なものです。そして、2008年の5月、希望したアフリカのザンビア事務所の駐在代表として2年半赴任することになりました。

初めての援助事業のマネジメント、初めての長期滞在、初めてのアフリカ。ザンビアでの日々は何もかもが新鮮で、刺激的でした。そして、終始「コミュニケーション」に悩み、コミュニケーションを学んだ日々でした。

私に任されたのは結核・エイズ対策事業で、医療施設を提供しつつ地域住民の医療ボランティアを育成・組織化するという内容でした。そのために、ボランティアを教育する現地人スタッフを日本人看護師と一緒にまとめていくことが日常の業務でした。

AMDAザンビア事務所スタッフと私(2009年頃)

<課題は人間関係>
 まず悩んだのがスタッフとの関係でした。現地のことを何も知らない私は彼らの存在と助けなしに仕事はできません。しかし、10分、20分は平気で遅刻したり、勤務時間中に中庭で延々とおしゃべりしていたり、業務用の車を私的に使用する等、「おおらかな」行動が目につきました。注意をすると反発する人もいたので、文化・価値観の違いとしてどこまで許容すべきか、どこまで求めるべきか悩みました。

また、ボランティア育成の方も一筋縄では行きませんでした。教育は必要なのですが、こちらが指示を出しすぎると自分達で考えなくなる。物資は必要ですが、与えすぎると依存的になる。「次は何をしてくれるの?」と、一人から聞かれた時に「ハッ」となりました。寄贈した井戸や機器が使われない、技術を教えても生かされない等の問題が国際協力業界全体にあることを知り、「人を助ける」ということがそう単純ではなく、相手の自立と持続性をよく考えた援助をしなければならないことが次第にわかってきました。

<コミュニケーションがもたらしてくれたもの> 
 試行錯誤の中で、心がけたのは「コミュニケーション」でした。スタッフとは毎朝現地のスタイル通り握手とハグで挨拶し、新聞ネタで雑談・冗談を交わし、毎朝ミーティングをして意見を聞き、調整して共通理解を図る。良い仕事は褒め、指摘すべきことは指摘し、できないことはできないと伝える。遅刻等の問題についても、「仕事は契約なのだから、組織としてのルールを明確にして、それを守ってもらうことは文化的背景に関係なく必要なことだ」と考えて、時間や規則を守るよう繰り返し求めていったところ、遅刻はなくなり、規律は守られるようになりました。「ヤスはハッキリ言ってくれるからいい」とスタッフから信頼を得て、チームワークが育っていきました。そのおかげで事業を計画通り遂行できたばかりか、新たに国際的なファンドを獲得して事業地を拡大することもできました。

 また、組織化がなかなか進まなかったボランティアの方でも進展がありました。指示を減らし、彼ら自身でのミーティングを再三促していったところ、ついには、知らないうちにグループの規約を自分達で作り、メンバーを刷新するまでに成長したのです。人の主体性を引き出すには指示命令は控え、「任せる」「促す」ことが大事だということを、身をもって学びました。「もっと早くこうしておけばよかった」という反省から、もっと上手に人の主体性とグループの協働を引き出せるようになりたいと思うようになりました。

医療ボランティアグループとのミーティング

<悔いが残った人間関係>
 成果はそれなりに上げたものの、実は、後悔も残りました。それは、最後、スタッフとの人間関係が悪くなってしまったことです。その原因は、私が、ミスの多いスタッフを、育てるのではなく配置転換して自分の理想の状態を作ろうとしたこと。また、いつしかトラブル処理をスタッフの考えを聞かずに自分の考えだけでやろうとして、反発を買ってしまったことでした。自分が慣れるに従って傲慢になってしまっていたのです。離任する時には、私ももういいと思い、心から別れを惜しみ合うような関係ではなくなっていました。

2010年の末任期が終わり、帰国の途に着きました。機内でザンビアでの日々を振り返ると、涙が流れてきました。「もっと優しくすればよかったなぁ…」。スタッフとの関係に暗い影を落としてしまったことが悔やまれてしかたなかったのです。

自分は成果や問題解決ばかりにとらわれて、スタッフの気持ちをおろそかにしてしまった。彼らとの人間関係があってこそ成果も出せたのに、そこに思いが至らなかった。彼らの明るさ、寛容さ、優しさ、自尊心の高さ、機転。いろんないいところがあって、それに助けられてばかりだったのに。もっと仲良く、楽しくやれたはずなのに…。そんな思いが胸中を駆け巡りました。だからこそ、今は、人には人間関係を大事にしてほしいと願います。

<ファシリテーションへの道>
 「ファシリテーションを専門に学ぼう」。帰国後すぐに起きた東日本大震災の被災地での支援活動を経て、2012年4月、南山大学大学院教育ファシリテーション専攻の門戸を叩きました。42歳での学び直し。ザンビアでの経験から、組織の活動や対話を上手に支援する専門家になりたいと考えたのでした。

 入ってみると、支援者として集団の活動を見る視点や取るべきコミュニケーションの手法は想像以上に奥深く、精妙で、多種多様であることがわかり、コミュニケーションの世界がとても面白く感じられました。また、実際に自分が農村での村おこし会議のファシリテーションをさせてもらい、その経験と検証を論文にしたのですが、外部支援者が意見とやる気を引き出し、行動につなげていくことの難しさを実感しました。JICA中部で働きながらの学生生活はキツかったのですが、無事修論を出して2年間で終えました。

<人間関係づくり〜新しい拠点、岐阜での再出発> 
 2014年4月、岐阜県での生活が始まりました。たまたま伊吹山を車窓から見て一目惚れしたのがきっかけで沿線の垂井町に移り住み、ぎふNPOセンターというNPOで働くことになりました。家も仕事も知り合いからの紹介でしたので、人の縁の不思議さとありがたさを感じます。NPOセンターでは、生きづらさを抱えている人たちのための社会的居場所を提案して開設し、運営しました(国際協力時代から得意だった助成金獲得のノウハウが生かされました)。そこに集った方々が仲良くなり、励まし合い、元気になっていく姿が嬉しく、安心できる場と信頼できる人間関係の大事さを学びました。

<対話の場づくり〜ファシリテーターとしてのスタート> 
 その後、また、人のご縁でファシリテーションを仕事にしている経営者と出会い、その方の元で働くことになりました。行政が主催する市民ワークショップの企画・進行が主な仕事で、対話の場のファシリテーションに数多く携わることができました。意見の真意を聞きそびれて後から後悔したり、横から割って入って行政職員の方に怒られたり、色々な失敗をしながら、ファシリテーションを実地で学んでいきました。嬉しかったのは、初対面同士が次第に打ち解け、最後は一緒に活動していく仲になっていくこと。頑固だった人が他の人の切実な意見を聞いて考えを変えること。アイディアの「便乗」が思いもよらない方向に発展していくこと等。対話の可能性と豊かさ、それを支えることの面白さとやりがいを感じました。

国際協力NPOのビジョン会議のファシリテーション(2016年)

<独立、創業〜これから>
 そして、2016年4月。自分が暮らす岐阜の地で、自分の考えでファシリテーションをやっていきたいとの思いから、独立しました。

ここ岐阜では「ファシリテーション」という言葉も知らない人が多く、正直、やっていけるのかという不安はありました。「名古屋に出ないと難しいよ」とも言われました。

それは受け止めつつ、逆に、だからこそ、私がこの地でやっていく意味もあると思いました。都会に出ればお客さんはいるかもしれないが、競合もたくさんいる。岐阜では競合はほぼいない。自分次第で開拓していくことはできるのではないかと楽観的に考えました。

何より、私としては、顧客となる組織に対して責任を持って関わりたいという思いがありました。近くで寄り添って、丁寧に支援し、変化・成長を見届けたい。海外での支援はどうしても期間が限られましたが、ここ日本では、一つの所に根を下ろして、じっくりと、長く、人と関わりたいと思うようになりました。その地が、たまたまではありますが、好きになった岐阜県であり、西美濃地域でした。

全く誰一人知り合いのいない土地で、ほぼ未経験の仕事で創業するというのは、自分でも無謀だなぁと呆れます。今に至るまで楽ではありませんでした。

それでも、関心を持って下さった方、認めて下さった方、信頼して下さった方が一人、また一人と増え、仕事の依頼をいただき、どうにか貢献して、感謝をいただくことができてきました。

ご支援した企業、組織で、対話の機会が増え、お互いを大事にする人間関係が育まれていることに喜びを感じています。

私にとっての「ファシリテーション」とは、単に会議で意見を引き出し、まとめることだけではなく、関わる人全てを大切に扱って、良い人間関係をつくっていくこと。そして、一緒に何かを創り上げていくことを意味します。

私の支援する人々が、そのような幸せな関係をつくれるような支援者=ファシリテーターとして、これからも活躍していきたいと願っています。